いろんな方が博士の学位を取得された経緯を公開されてますが,
と,三拍子そろったw人が
というのはあまり見たことないなぁ(つうか,そもそも恥ずかしいしw.サーベイが足りてないだけかもしれないけどw),ということで,自分語りではあるけど書いてみました.
内容は全然足りてないのですが,一応最初から最後まで「その時その時でどんなシチュエーション/心境だったか」とかは(わりかし隠さず)書いたので,一旦これで公開しちゃいます.
で,お約束の注意ですが…
ということで,何かの参考になれば幸いです.
具体的に何をどう考えたか?という話は後述するが,おそらく自分自身が一種の「職人」であることにどこかで気がついたのと,出来れば自己流の研究のやり方からきちんとした研究のやり方へとステップアップさせたい,という欲求があったんだろう.
もちろん,学位を取らないでそういう道を選ぶという選択肢もあるんだろうけど,どうせやるならば学位も取ってしまえ,と考えたのではないか(かなり過去の話なので,すでにこのあたりあやふやだけど).
あと,外部の研究者の方々と話をするタイミングで,名刺を頂戴すると「博士(工学)」とかPh.D.とかいう文字列が書かれていることがあるが,そういう方々の立居振舞いに憧れた,というのもある.
実際,博士(情報学)の学位を取得して,「自分自身がどうありたい」というのが満たされた部分(主に自覚面w)もあるし,「あまりかわらないなぁw」というのもあるけど,きっと今後じわじわと見えてくる部分もたくさんあるだろう.よくもわるくも.
「学生やるにもカネはかかる」というわけで,どの程度のおカネがかかったのか?というのをざっと挙げてみようか.
費用題目 | 単価(特記なき場合は円) | 総額(私の場合) | 自己負担? | 備考 |
入学金 | 300,000 | 300,000 | 会社から全額 | 入るときだけかかる |
学費 | 500,000(半年分),250,000(4年目のみ,半年分) | 4,500,000 | 会社から8期分,自分で2期分 | 5年在学してたので,半期×10.施設設備費と実習費含む |
国際会議参加費 | 500ドル | 1,000ドル | 大学から全額 | 2本採択.旅費は別 |
国際会議旅費 | 200,000程度 | 200,000程度 | 会社から全額 | 1回の会議で2本採択されたため,1回分 |
国内会議参加費 | 25,000程度 | 50,000程度 | 全額自費 | 2回参加 |
国内会議旅費 | 50,000程度 | 100,000程度 | 全額自費 | 2回参加 |
論文誌掲載料 | 200,000程度 | 200,000程度 | 大学から全額 | 1回掲載 |
博士論文印刷費 | 100,000程度 | 100,000程度 | 会社から全額 | 終わりに1回程度 |
その他近郊交通費 | さまざま | 100,000程度 | 大半は会社から出た | 5年でこんくらい? |
総額 | - | 5,650,000程度 | - | 自費分はおおよそ1,150,000程度 |
大学に納入するだけで,年間おおよそ100万円くらいはかかるわけだが,私の場合は会社から派遣されてきている社会人学生ということもあって,大半は職場から支払っていただけたのは幸運だった.もちろん,そこでかけていただいた費用は,どこかで埋め合わせるなりしないといけないなぁ,と個人的には思う(それに見合う売上を立てるなり受注を獲得するなど).
わたしゃ1991年に大学を卒業したわけだが,この時点ではまさか「10年以上後にまた大学に入学する」という選択肢を自分が取るなどとは「夢にも」思っていなかった. むしろ入社した会社で,「なんとか落ちこぼれないよう」必死についていくだけで手一杯だったとも言える.ちなみに配属先は,研究開発部門.当時はまだ院卒が少なかった(といってもゼロではなかったw)こともあり,学部卒でそういう部門に配属されるというのはザラであった.
で,入社時に配属された担当が「研究」と「開発」の両方を手がけており,「研究開発部門ならば論文書いたり研究会で発表したりというのは当然だろ」という雰囲気だったのは,大変な幸いだったといえる.この担当にいた経験がなかったら,多分オレは学位のがの字もアタマに置いておかなかったんじゃないか? あと,この担当は,自社OSの研究開発を行なっていたこともあり,OS関連の技術に何も抵抗がなくなったことも大収穫.もちろん,自分でもOSをあれこれいじったりしていたこともあって,その担当を希望したとも言えるが.
「落ちこぼれないよう」といいつつも,さんざっぱら落ちこぼれてしまっていたオレw.でも,会社をクビにならない程度には仕事はできていたと思われる(あくまで主観).
そんな中,上司が工学博士の学位を取得したと聞く(論文博士). 「スゲー」という思いと「どうしたら取れるんだろう」という思いが交錯していたが,自分には無理だなぁ…という思いも同時にわきおこる. しばらくしてその上司は会社を辞めて,とある大学に助教授として着任されることに. それからしばらくして,オレも異動. 異動先ではいろいろあって,目いっぱい評価を落としていた自分だがw,そこの上司も工学博士の学位を取得した(これまた論文博士).
なんというか,スゲエ人たちだなぁという思いが重なっていく.
そうしているうちに,また異動.今度はモロに現場の支援部隊ということで,しばらくは論文とか学会とかそういう言葉とは無縁となっていく.これが「はじまりのおわり」.
社会人になる前から社会人になった後,オレ自身はフリーソフトウェア(not オープンソース)にハマっていた. そちら方面の友人/知人も増え,寄り合いにも顔をよく出すようになった. そういうところで得たツテで,気がついたらNetBSD/x68kの開発チームの面々とよく遊んでたりしたわけだが,その延長でコマンドリファレンス類の翻訳に携わることに. この時,ネットワークに関する知識はそこそこあったので,ネットワーク機能のコマンドリファレンス類の翻訳を一手に引き受けたわけだが,これが面白い. アクシデント等もあったものの,ひととおり書き上げ,1990年代のオレの大きな実績の1つとなった.
時は流れて2000年ごろ.オレ自身は同僚に触発されたこともあり,ネットワーク系の暗号化通信ソフトウェアをゴリゴリいじることになる(業務外).そこの成果をLinux Conference 2000 Fallで発表することになるわけだが,これがとある出版社の編集さんの目に止まり,記事にまとめてみませんか?というオファーをいただくことに. やったことはなかったものの,面白そうだったので引き受けることに. 結果としてその記事はウケがよかったようで一安心するが,その後にセキュリティ関連の分野で活動している方から「話をしてみない?」というオファーをいただく.
このあたりから,セキュリティ関連の「技術」を多く目にしたり,自分で検証したりということにつながっていくが,この時点ではセキュリティ関連技術は自分の業務ではなかった.あくまで手弁当.この状態はこの後数年にわたって続いていくことになる.
このあたりから,雑誌や書籍の寄稿をあれこれやっていくことになる. 多い時には月に100ページくらいの書き下ろしとかをやっていた覚えが…. そんなこんなで,書籍を書いたり記事を寄稿したりという日々がやってきて,そういう実績がたまるたまる.
この時期に,仮想マシンモニタに関する技術や仮想化に関する各種サーベイも手がけ,技術者としての幅出しを(なぜか)業務外で行うことに成功する.
あと,やっていたことがやっていたことだけに,Linuxカーネルの構造把握や改造も手がけることになった.もはやシステム基盤の何でも屋さん状態w
技術者のはしくれwとして日々の課題と格闘していたところで,当時の上司A部長から唐突なるオファーをいただく.
「大学院いかない?」
実はその前に友人の一人が博士の学位(こちらは課程博士)を取得したという話を聞き及んでおり,自分自身どうすべぇと考えていたところだった. そこで「大学院への進学の話」である.当然「会社員としての籍はそのまま」というか,仕事はするがその合間に大学に行くという話だ.
ここで選択肢が2つ提示される.
・普通に博士前期課程に行く ・普通でなく博士後期課程に行く
オレの場合,学部卒であり,本来であれば「博士前期」→「博士後期」というパスになるはずなのだが,ここでA部長の「今更博士前期もないだろ」という囁きwにより,あっさり博士後期を受けることに.
ここで博士前期修了相当の力はあるということを示すために,これまでの業務実績やらなにやらをかき集め,大学側に提示.その後研究計画書やら何やらを書き上げ,本試験へ. そうこうしているうちに合格通知が届く. 晴れて(?)情報セキュリティ大学院大学 博士後期課程に進学が決定する.
面接と各種証跡はなんとでもなったのだが,一番のミスは「実績」を勘違いしていたこと.実務系の実績と,いわゆる「学術分野で認められる実績」は異なることを,この時点ではまるで知らなかった状態.この勘違いが後々まで響くことに…
大学院在籍1年目は,技術者のはしくれでいる一方で,お仕事に穴を空けることなくゼミに出席するのがまず一仕事w そうしているうちに2年目に突入するわけだが,なんと大学院在籍2年目は,技術畑とはまるで関係ない世界に(ということを,配属直後に直属上長から「強く」言い渡されて落ちるモチベーション).完全に逆境状態に. それでもお仕事でまだ見ぬ世界に触れつつ,研究も進めねばならない状況になり,とりあえず査読なしの研究会やシンポジウムでは発表(仕事とは関係なくなってしまったこともあり,当然全部自腹だ).この時になぜかインスピレーションを得て,以後査読論文の作成に進む.これがまたオレ自身の筋が悪くw,延々苦しむことに.
国際会議に出すにも持ちネタも乏しくw,2年目が終わった時点では学術系の実績はゼロ.こりゃきついわー…
仕事と研究がまるで別のベクトルを持つようになり,正直「あきらめてしまおうか」という気分が日に日に大きくなっていく.どうなるにせよ,やりかけた研究やサブテーマについてまとめないわけにはいかない(ほとんど意地w). あれこれ書いて投稿しては不採録になり,また直して投稿しては不採録になり…という日々が続いた. なんだかんだで不採録の山を築いたのもこの時期(だけじゃないけどねw).それでもあきらめず,査読付き国際会議や論文誌への投稿は続けていた. 一応「査読付き論文誌とか国際会議へ投稿済み.結果待ち」というステータスではあったが,3年目の終わりには中間審査を受けて,かなり危ない橋ではあったが「まぁいいだろう」という判定をいただく.この時点で「学位審査まであと一年」というタイマーが動作しはじめた.あと一年でなんとかなるんか!?
ちなみに投稿したモンは全部不採録.萎えかけるが後には引けない…
というわけで(?),中間審査が通った時点で正規の修業年限を使い果たしたわけだが,一応の情状酌量の余地があったとみなされ,当時の上長からは,そのまま在籍は認められる. と,大学院在籍4年目に突入すると同時に職場異動というイベントが発生し,研究開発畑に.ここで大きな転機を迎えることに.
仕事と研究が一致してたわけではないが,職場が「研究開発部門」というのは大きい. このような職場であるから,(本来の仕事がある中で)堂々と論文を書けるわけではないのだが,ちょっとした合間に学術系の動向や雰囲気を自分に取り入れることが出来たというのは貴重である.
そうこうしているうちに,4年目の8月に論文を2本投稿した国際会議で,何が起こったのか「2本とも」採択通知が来て,4年目の冬(12月)に,初の国際会議(DASC2009)に.
もともと英語がまるで堪能でない上にw,かなり仕事上も厳しい時期だったこともあり,発表できたのが不思議なくらいの状態.それでも国際会議に参加されていた先人から「面白かったよ」という温かいコメントを受け,「よーしやるぞ!」とモチベーションを上げて帰国. この時に,自分が投稿していた論文の関連分野や研究に関する重要な示唆もいただく. 話せるか話せないかはともかく,とにかく「伝える」努力が重要であることは,文字通り「身をもって」理解した.
国際会議の実績は出たが,論文誌の実績はまだ(投稿中). ということで,学位審査は受けたものの,論文誌の結果がわかるまではおあずけとなる. そして学位審査の時には査読中だった論文は,あえなく不採録. これにより,学位審査は延長.ここでまた一年のタイマーが発動.この一年でジャーナル採録が決まらないと,またふりだしに戻ることに.
国際会議には通ったが,論文誌はまるで通らずw,一念発起して「それまでの投稿に対する査読コメント」を全部眺める. ありていにいうと「論文になってない」というのと同時に「筋は悪くない」というのが見て取れたので,それまで修正を重ねてきた文章を「あえてすっぱり切り捨てて」,ゼロから論文を作りなおすことに. 4年目終わりに頂戴した不採録のお知らせのを気に方針転換したのはリスキーだが,別に投稿論文の主題を変えるわけでもなんでもないので,まだ気はラク.
で,論文の構成は,データ取り直しも含めるとおおよそ半年くらいかけて全面的に改訂を行なっている.
で,構成をまるごと変えて,いくばくかそれらしくなった論文を,(ジャーナルではなく)トランザクション(ACS)に投稿.それもあえなく不採録だったのだが,その時のコメントがかなりポジティブだったので(他の研究者の方にいわせると「これで落ちる理由がわからない」とのことw),当該論文をあらためて読み直し,論理が繋がらない/しっくりこないところをなおしたり,組み直した結果浮いた文章や内容をばっさり削ったりして出来た内容を,今度はジャーナルに投稿(特集号).不採録通知からジャーナル投稿までは約4日(11/26夜に不採録通知受領→ジャーナルへの投稿は11/30夕方).仕事しながらなので,実質見直しは3日も取れていないw
コワかったのは「投稿してから2ヶ月足らずで査読が完了し,編集委員会を待つだけ」状態になっていたこと.それまでの実績を考えると,2ヶ月足らずで査読が終わってたなどということはなく,「読みやすくしたらマッハで落とされたか?」とおそれおののいていた.
そして…11月末に投稿して3月上旬,結果が到着.内容は「採録」. さんざっぱら黒星の山を築きあげてきたわけだが,ここに来て条件付「でない」採録通知をもらうとは思わず,思わず職場で声を上げてしまう.これで学位に至るまでの実績が全部たまったことになる.
大学院在籍6年目を覚悟していた身としては,あまりに意外な結果に半分くらいは「ぽかーん」としていたところだが,この結果を指導教官に報告.
指導教官からは,短いながらも暖かいお返事をいただく.
その結果をもって教授会に付議を行い,学位授与が決定した. 以下はその時のメールの文面.
…これで何かの運を使い果たしたんじゃないか?というくらい出来過ぎた結果だが,たまにはええじゃろ.
学位授与が決定したのが2011年3月9日,公聴会は以下のとおり2011年3月14日(ホントに公聴会のみ.審査はすでに2010年に始まり,2011年に合格が出た).
日程:3/14(月)15:00〜17:00 場所:IISEC3F303教室
よろしくお願いいたします。
しかし…2011年3月11日に,東日本大震災が発生.当然のごとくオレも被災.
発生してしまった震災はどうしようもないのだが,この煽りを食って交通機関がガタガタに.しかも3月14日の朝は,我が家から大学まで行く手段(JR)が,が,が…動いてない…. しょうがないので他の迂回路を探し,無事事無きを得る.次は「帰りの交通機関」がダメだったが,それはなんとかなった.
それと前後して,「論文の印刷」が…という事態に直面し,大学が懇意にしている印刷所をあたってみたが「予定が立たない」とのこと.しょうがないので都心のほうにある印刷会社にあたってみると,「大丈夫ですよ」という心強い返事.
ホントは共信印刷に頼みたかったんだけどw,とにかく余裕がないということで断念. まぁ,しょうがないか.
震災直後な状態であり,学位記授与式は延期. それでも,修了証明書をいただいた.
学位記授与式と謝恩会,そして研究室の集まりは,後日5月1日に行う旨連絡をもらい,そこで無事学位記を受け取ることに.
ところがこの日はなんと,COMIC1の当日…嫌な予感はしていたんだが… しょうがないので,COMIC1は朝だけ手伝わせていただき,そのまま学位記授与式の会場へ.
式と謝恩会はつつがなく執り行われ,晴れて(?)Dr.に.
博士(情報学)の学位を取得したものの,別にある日突然オレ自身の中身がまるで別のモノに入れ替わるわけでもなければ変化するわけでもない(なったらお化けだw). こういう前提を置いて,何が変わらず,何が変わったかをざっと挙げてみる.
知ってる範囲には,オレ自身の実績は知っていただいてたこともあり,基本変わらない(むしろ学位をネタにいじられるw)わけだが,初対面の人は感心したり,お話に妙に聞き入っていただいたりと,なんというか営業ツールwとしての側面を痛感することに.
もっとも,学位を取った分野が結構珍しいので(「情報学」の学位を出している大学が少ないことに起因),学位持ちからも「どちらで?」と聞かれることも.
このあたりは,故itojun氏や首藤氏のWebページに詳しい. ただ,これらはどちらかというと「学生としての生活が主体」であり,「社会人学生としての生活」はあまり触れられているわけではない(力武氏のWebページに詳しいが,それとて(あたりまえだが)十全ではない)ので,あえてオレの所感を著すのはアリだろう.
http://www.itojun.org/paper/keio-doctor97.html#omake http://www.shudo.net/article/doctor.html http://www.k2r.org/kenji/japanese-articles/ouistmmphd
これらをまっとうするためには,当然時間も必要だ.どんなにやりくりしても,かかるもんはかかる.
ポジティブでないことはわかるのだがw,直接的には上記のような感じだろう. そして,間接的に(ボディブローのごとく)きいてくるのが,上記のようなことで時間を使わなければならない以上,その時間は業務に充てられない.必然的に,業務に響いてきかねないような予定の衝突が出てくるので,そこいらを繰り合わせるための工数をかける必要がある.これが事前のネゴのみで済む場合もあるし,その時にならないと出来ないネゴもある. 少なくとも「事前に言っとくこと」は前提ではあるが,学生として動かなければならないタイミングが予定されていたとしても,周囲や関係者にはその旨を常日頃から認識していただかないといけない.
要は内部工作をきちんとやらないといけないということだw
これもまたいろんな見方があるだろうが,特に学外の評価を受けなくとも(学内評価だけで)修士の学位は出ることが多い(もちろん,どの先生も「しかるべき形で学外に成果を公表する」ことを奨励するだろうし,そうすることで出した当人の評価も上がる).
ところが博士の学位(博士後期修了)は,修士と比べるといきなりハードルが跳ね上がる.感覚としては「高校の体育祭にクラス代表として出られるレベル」と「インターハイに出られるレベル」くらい違う,と思っていただければよいだろう.
オレがつらつら「不採録〜不採録」と書いているところがそこの難しさを物語っているのだが,博士の学位審査のための材料は,外にもその判断材料を求めることが圧倒的に多い.情報系の学位ならば,普通に「査読付き国際会議」や「査読付き論文誌」の採択/採録実績が求められる.このあたりは,大学や専攻によって基準が異なるので,自分が進学を目論んでいる先の基準を確認する必要があるだろう.
そして,これらの査読の洗礼を経て,「学外の第三者から見てまぁいいだろう」というレベルに達した人が博士の学位を授与されるという仕組みになっている.というか,そうしないと学位そのものの質を担保出来ない.
修士の学位を持っている人は,きちんと学業をまっとうしたという点において評価に値するが,当該学位を持つ人がどのような資質を持つのかについては,当人の実績をきっちりと洗う必要がある.
一方,博士の学位を持っている人は,真逆である.その学位を持っていることで,(専門分野などの違いはあるだろうが)ディプロマ・ミルによるものでない限りは,どのような経験があるのか?というのが担保されるという認識である.少なくとも「自力で研究テーマを立ち上げ,筋の通った内容にした」という経験をすでに持っていることがわかる.